私たちが初めてニットのパターンを読んだときは、その記号の羅列に「なんじゃぁ〜こりゃぁ〜」(松田優作調で読んでください)、と思ったものですが、このとき脳裏によぎったのは、さ・ら・に、スーパーなんじゃこりゃ、であったろう杉田玄白のことでした。
「蘭学事始」を読むと、当時は鎖国中、しかもちょっと横文字を使った小冊が発禁になるというような時代です。オランダの解剖学の専門書「ターヘルアナトミア」翻訳という大望を果たそうとするのに、杉田玄白はアルファベットを急いで覚えたようです。まさに泥縄。
その翌日、良沢が宅に集まり、前日のことを語り合い、先ず、かのターヘル・アナトミアの書にうち向かひしに、誠に艪舵なき船の大海に乗り出せしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり。
このようにただ呆然とするばかりだったようです。無理もありません。まともな辞書さえないのですから。ともかく、内分泌などの説明は手がかりがないので、解剖の外観を説明してあるところなら挿し絵もあるし、やりやすいだろう、ということで始めるのですが、
たとへば、眉(ウエインブラーウ)というものは目の上に生じたる毛なりとあるやうなる一句も、彷彿として、長き春の一日には明きらめられず、日暮るるまで考え詰め、互ひににらみ合ひて、僅か一二寸ばかりの文章、一行も解し得ることならぬことにてありしなり。
というようなありさまだったようです。分からないところは丸に十を入れた記号を書いて、轡(くつわ)十文字と名づけたようですが、翻訳のあまりの苦しさに、あれも轡十文字、これも轡十文字、となったりした、というように振り返っています。しかし、毎月6・7回の会合を続けて、1年余りも経ったとき、訳語も増えて、オランダの国の事情も分かり、ざっとした訳なら一日に十行位はできるようになって、オランダの通訳が質問にくるようになった、とあります。
江戸時代に蘭学がこのようにして生まれて、広まったことは医学だけの問題ではなく、日本が近代化をむかえる上で決定的な役割を果たしたように思います。私たちも、編物にしてもパソコンにしても、時には本当に分からなくてほとほと投げ出したい気持ちになることがあるのですが、その時はいつも、もっと不自由な環境においてターヘルアナトミアの完訳を成し遂げた杉田玄白の姿が浮かんできます。まぁ、私たちがやろうとしていることは、200年後の人を勇気づけるような大業とは程遠いことなので、比較にはならないんですけど。