人が編むところ、人の編みかけを見たことがない人が増えている?

【おわび】昨日のよもやま話のアップロードが正常にできていませんでした。すみませんでした。

全文検索システムをNamazuに変更しました。このため、検索速度が飛躍的に向上しました。また、単語のある場所の重み付けができるようになりましたので、検索した語にふさわしいと思われるテキストが上位にくる確率が高くなっています。その代わり、従来は必ず検索した語のを含む文章が検索結果の要約内に表示されていましたが、Namazuでは検索した語を含む文章の最初の部分が要約として表示されるようになりました。

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ホームページを見ていると、これまでの書籍や雑誌では得られない意外な情報に出会うことがあります。マスメディアで紹介されるものには偏りがあることは誰でも知っていますが、例えば人体という私たちがもっとも親しいはずのものでも、情報は偏向しています。メディアに登場する身体は、ほとんどが若くスタイルがよく、肌がきれいで、色が白いというようなものばかりです。「乳房論」(マリリン・ヤーロム著,平石律子訳,トレヴィル,1998)に、次のような一節があります。

三十年間コスモポリタン誌の編集者を務めるヘレン・ガーレー・ブラウンは、1960年代後半、次のようなフェミニスト的観点に立っていた。「女性には見たいと思っても、それほど多くの他人の裸を見るチャンスがない」として、彼女は広告への女性ヌード起用を擁護した。特に米国では、女性が他の女性の乳房を見るチャンスはほとんどない。「他の人たちの乳房を理想と考えて…..ああ、何てことでしょう。因習に捉われない自由な女性でありながら、自分以外の女性の体がどんな格好をしているのか、実際には知らないなんて」もちろんガーレー・ブラウンの意見表明がファッション写真のモデルとなる対象者の幅を若者から年配者へ、引き締まった体からふっくらした体へ広げたわけでも、従来の美しい乳房の理想を変えたわけでもなかった。コスモポリタン誌を始め、他の女性ファッション誌は引き続き、若いモデルだけを起用したのである。

日本では、昔は銭湯で人の裸などは当たり前でしたが、最近では家庭風呂が一般的なので、日本でもアメリカと同じようなものかもしれませんね。毎日テレビや雑誌でナイスバディばかり見せ付けられていれば、自分の体に自信を無くしたり、「これは本来あるべき自分の体でない」と思ったりする人が増えてくるのも無理がないことかもしれません。しかし、実際にはあのようなスタイルをしている人間などほとんどいません。それどころか、人の体は顔と同じように極めて個性的で、また完璧なものではなく、たいていシミ・シワ・あざ・ほくろなどがあります。しかしこれらはほとんどといっていいほどマスメディアには登場しません。

編物掲示板をのぞいていると、頻繁に目にする質問があります。それは、「メリヤス編みが丸まってしまうんです」という悩みです。おそらくこの人たちは、編物本に載っている編地しか見たことがないのでしょう。編物本の写真でメリヤス編みを見ると定規で計ったように平面を保っています。当然編目にはまったく乱れがありません。このような編地が編めるのか、編まなければいけないのかと思うと絶望的な気持ちになることは分かります。しかし、言うまでもなくメリヤス編みとは、内側にくるくると巻く性質を持っています。写真の編地は整形されたものなのです。
昔の人は編物を家族や友人達から覚えました。当然、完璧な編目などあろうはずもなく、人によってゲージは天と地ほども違い、腕前もさまざま、間違った模様をごまかしてあったり、色使いなども結構アバウト、とじはぎも自己流、そんな編地に囲まれているなかで、自分の編物技術の位置を自然に知りました。
しかし時代は変わったのです。他人の編地を見たこともない人が増えてきて、本やビデオなどから情報を得るのが普通になりました。写真の中にある理想的な編地と自分の編地とを単純に比較すれば、編み針を投げ捨てたくなるかもしれません。私たちは、このような周りに編物友達のいない方への助けになればと思ってこのホームページを始めました。しかしインターネット上では、大事なところで落とした目をさっと拾って直してくれた、あの日の友人の代わりをすることは、並大抵ではないようです。

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