名言「歌が上手いということは、何と無力なんだろう」

引上げ目を追加しました。JIS L 0201 編目記号完全制覇まで、あと2種類。

今日は、ナンシー関著「テレビ消灯時間2」(文春文庫,2000年8月10日)を再度とりあげたいのです。今回は、ナンシーさんが「夜もヒッパレ」というテレビ番組を取り上げている98年5月21日の回です。ナンシーさんは、「夜もヒッパレ」が最近、歌唱力至上主義のようになってきて歌が上手い歌手やグループの登場回数が増えてきているということを指摘したあと、次のように評します。

しかしなあ、この人たちが歌い上げれば歌い上げるほど「嬉しくない」のは何故だろうか。ひとつも嬉しくないのである。一般論として、特別に高い能力を目のあたりにすることというのは、何らかの喜びや感動を引き起こすもののはずなのに。たとえばSMAPの歌を、完璧な音程とゴージャスなハーモニーでサーカスに歌ってもらったところで、さあどうする。嬉しいか?私の胸には「歌が上手いということは、何と無力なんだろう」という思いが浮かぶばかりだ。

うぅ。この本のあとがきで宮部みゆきさんが、ナンシーさんの文章は痛い、という意味の解説をしていましたが、文字どおり、なんと痛い文章でしょうか。私たちが何とはなしに聞き過ごしてきた「上手いけれどまったく感動のない歌」をこうも見事に射抜いた文章があったでしょうか。これに匹敵するほど痛い文章といえば、「今日の芸術」(岡本太郎著,1973,講談社文庫)くらいしか思い付きません。

古今の名画傑作が数多く集められているパリのルーヴル博物館あたりに行って、見回すと、ただちにピンとくる厳粛な事実なのですが、いつの時代でも、ほんとうにすぐれたものはけっして「うまい」という作品ではありません。むしろ技術的には巧みさが見えない、破れたところのあるような作品のほうが、ジカに、純粋に心を打ってくるものを持っています。美術史をつらぬいて残されているものも、けっきょく、そういう作品です。

なぜこれらの文章が痛いのか。言うまでもなく、技術的に優れていてもなんら感興を引き起こさない作品が多すぎるからです。そしてそこから抜け出す方法を私たちがまだ見出せていないからに違いありません。

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