最も、もらって困るプレゼントの殿堂入り!「手編みのセーター」

最も、もらって困るプレゼントの一位は、ここのところずっと「手編みのセーター」のようです。私たちも奥さんが旦那さんに「編んであげようか?」と聞いたら「いや。怨念こもってそう。」と断られたというメールをいただいたことがあります。まぁ、これは照れ隠しもあるとは思いますが、実質的にもやはり「手編みのセーター」はもらって困るもののようです。こんな不自由なことになったのは、編物ファンにとっては悲しいことですが、まぁやむを得ないのか、と諦めていたらふと、手編みのものをもらって困るのは「値段がないから」ではないか?と思い至りました。「豊かさの精神病理」(大平健著,岩波新書,1990)に、「消費する大衆」のプレゼントについて次のような記述があります。

“誠意”とは高価なプレゼントのことだというのは、今や、若い人びとに限られた考え方ではないようです。「未公開株」とまではいかなくても、高価なモノを贈られると、人びとは「こんなに感謝してくれていたのか」と送り主の”誠意”に胸を打たれますが、安物をもらったのでは「義理でこんなモノ送ってこなくてもいいのに」と不満の色を示します。逆に、「もらう筋合いでない」のに高価なモノをもらうと、素直に喜べず当惑します。自分の方でも高価なモノで返礼しなくてはならないからですが、カネのためばかりではありません。深い人間関係に入るつもりのないヒトと、義理以上のつき合いになるのを恐れるのです。

う〜ん。言われてみれば、そうですね〜。

ともあれ、いつの間にか人びとはモノに気持ちを託して贈り、モノをもらって贈り主の気持ちに感謝するなどというまどろっこしいことをやめてしまいました。贈りモノがすなわち”気持”というプラグマティックで分かりやすい哲学に乗り換えた人びとがたくさんいるのです。

この贈りモノのプラグマティズムは、良きにつけ悪しきにつけ、ヒトの気持のヤヤコシイところ、ナマナマシイ面、ワケノワカラナイ点をきれいさっぱり消し去りました。そのおかげで、人びとは情緒を失いましたが、惑わされることもなくなりました。人びとは、プレゼントによって、ある意味でドライで、ある意味で淡々とした人付き合いをするようになりました。

こういう形のプレゼントに「手編みのセーター」はまったくなじみません。なにしろ価格がないのですから、もらうほうとしては無限に高価なプレゼントを受け取ることを強要されるような息苦しさを感じるのは当然かもしれません。だからといって、お返しに手作りのものをプレゼントしてはたしかに、誤って「”愛情”が贈られてしまう危険」が大です。プレゼントするモノがすなわち愛情だという文化では、モノに愛情を込めるという儀式は、そもそも反則技なのかもしれません。

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