「編み物」という趣味と「編物デザイン」という趣味の違いについて

「編物」という趣味と「編物デザイン」という趣味は別のジャンルに属するのではないかと思うほど、違います。例えば「ぬり絵」と「オリジナルイラスト」とは明らかに別の遊び・技術だということに異論はないと思いますが、編み方や糸の種類を本で見て編むのは「ぬり絵」的な趣味です。もちろん編物技法は「ぬり絵」よりもはるかに高度なものが要求されますし、その奥も非常に深いものです。また、編物も正真正銘、本の通りに編むのではなく、大きさ・糸の種類・色などの変化を含めた様々なアレンジを凝らす人のほうが多いと思います。その意味で、これも大きく見れば創造的な楽しい趣味であることは間違いありません。私たちも、よく「毛糸だま」などの本に載っている作品を編みます。

しかし、一度でもまったく書籍に頼らずに、本気でオリジナルデザインをやってみれば、その大変さが想像を遥かに越えたものであると、身に染みてわかるはずです。この大変さはどれほど編物技法に長じていても、全く変わりません。

編物の本を見ても、オリジナルデザインについて説明した本はほとんどありません。Designing Knitware(Deborah Newton,The Tauton Press,1998)は、例外的なオリジナルデザインをテーマとした本ですが、その書き出しが「10年前、私が駆け出しのデザイナーだった頃、ニットウェアデザインに関する情報が少ないのに、完璧にイライラさせられた」と始まるのです。そして、デザインする能力とは詰まるところ、「見る技術」(Learning to See)であると結論付けます。これにはうなずかされました。その通り、編物に限らず、創作を始めると見る目がめきめきと上達します。今までどれほど物を見ていなかったか、逆に驚くほどです。現代は情報化社会と言いますが、実際のところは評論的な聞きかじった情報が多く、本質を見る力は逆に衰えているのではないかと思えます。実は、編物という趣味の大きな効能は「ファッションを見る能力」の向上ではないかと私たちは思っています。谷崎潤一郎氏の「文章読本」(中公文庫,1975)には次のような文章があります。

しかし、感覚を鋭敏にするのには、他人の作った文章を読む傍ら、時々自分でも作ってみるに越したことはありません。もっとも、文筆を以って世に立とうとする者は、是非とも多く読むと共に多く作ることを練習しなければなりませんが、私の云うのはそうでなく、鑑賞者の側に立つ人といえども、鑑賞眼を一層確かにするためには、やはり自分で実際に作ってみる必要がある、と申すのであります。たとえば、前に挙げた三味線の例で申しますと、自分であの楽器を手に取ったことのない人には、中々三味線の上手下手は分かりにくい。何度も繰り返して聞くようにすれば分かって来ることは来ますけれども、そこまで耳が肥えるのにはよほどの年数がかかるのでありまして、進歩の度が遅い。然るにたとい一年でも半年でも、自分で三味線を習ってみると、音に対する感覚はめきめきと発達して来て、鑑賞力が一度に進歩するのであります。

(脱線しますが、今この文豪の文章を引用していて、その物凄さに脱力しそうになりました。このような文章の味わいというのも、自分で文章を沢山書くようになって初めて分かる部分が多々あります。情けないですが、学生の頃はさっぱりわかりませんでした。)

現在のファッションは、ファッション雑誌などから、あ〜だこ〜だという知識を仕入れて、その知識量を背景に色々なアイテムを組み合わせるのですが、なかなかどうして、自分なりの本当の価値観が反映されているのか、単に情報に振り回されているのか不安になることもあるはずです。自分が着るものを自分で作ってみる、それもできれば一からデザインもしてみる、この経験は自分の本質的な嗜好と流行との関係を考え直してみるいい機会になると思います。

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