前に、毛糸の買い過ぎに注意しましょうということを書きましたが、言うは易く行うは難し、です。中村うさぎさんはその後、どうなったかというと「週間文春」に連載中の「ショッピングの女王」を読めば分かる通り、相変わらず買いまくっています。(笑)
森鴎外の「高瀬舟」という有名な小説があります。私たちは森鴎外に傾倒しているので、今後もこの文豪の小説は出てくるかもしれません。とにかく紹介したい文章がいっぱいあって困るのです。それはさておき今回、「高瀬舟」とはどういうものか、ということを簡単に紹介しようと思って小説の最初を読んでみて、唸ってしまいました。要約不可能です。無駄な努力は止めて、そのまま引用させていただきます。
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであった。それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心で、この同心は親類の中で、主だった一人を大阪まで同船させることを許す慣例であった。これは上へ通った事ではないが、いわゆる大目に見るのであった、黙許であった。
罪人といってもいつも極悪人ということはなく、ふとしたはずみで罪を犯してしまった人が多いのは今も昔も変わらないようで、「この舟の中で、罪人とその親類の者とは夜どおし身の上を語り合う。いつもいつも悔やんでも還らぬ繰言である。」ということになります。
ところがあるとき、羽田庄兵衛という同心は、変わった罪人を運ぶことになります。喜助という名のその男は弟殺しの罪を問われて遠島になるのですが、高瀬舟の上でなぜか喜びの表情が見られるのです。我慢しきれなくなって庄兵衛は、喜助になぜそのように島に行くのが苦にならないようなのか尋ねます。そうすると喜助は、自分にとって京都の生活はとても苦しいもので、居場所がなかった、今回お上が島に居ろと言ってもらえるなら何よりも有り難い、しかも島へ行く際二百文のお金をもらった、今までいくら稼いでも手元にお金が残ったことはない、使わないで金を持っているということは初めてのことで、嬉しいというように答えます。
庄兵衛は、今喜助の話を聞いて、喜助の身の上をわが身の上に引き比べてみた。喜助は為事をして給料を取っても、右から左に人手に渡して亡くしてしまうと云った。いかにも哀れな、気の毒な境界である。しかし一転して我身の上を顧みれば、彼と我との間に、果たしてどれほどの差があるか。自分も上から貰う扶持米を右から左へ人手に渡して暮らしているに過ぎぬではないか。彼と我との相違は、いわば十露盤(そろばん)の桁が違っているだけで、喜助の有難がる二百文に相当する貯蓄だに、こっちはないのである。
庄兵衛は喜助の話を聞いてこのように考えるのです。
庄兵衛はただ漠然と、人の一生というような事を思ってみた。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。万一の時に備える蓄がないと、すこしでも蓄があったらと思う。蓄があっても、またその蓄がもっと多かったらと思う。かくのごとく先から先へと考えてみれば、人はどこまで往って踏み止まることが出来るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まってみせてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気が附いた。
その後、話は喜助の弟殺しに及び、弟が自殺を図って死に損なっていた苦しみを救うための行為を罪に咎められたことを知るのですが、だいたい「高瀬舟」がニュースにでてきたりするのは、この自殺幇助の線のことが多いようです。しかし、自殺幇助などというのは普通の人間にはまず一生、縁のないことでしょうが、お金のほうは毎日縁があることですので、こっちの方がより興味があるのは自然でしょう。犬が人を噛んでもニュースにはならないが人が犬を噛むとニュースになる、と言われるように変わったことを伝えるのがニュースならそれもしようがないことかもしれません。しかし、罪人となってまでなお足る事を知るような人間は、犬を噛む人よりも遥かに珍しいのではないかとも思うのです