ダンス・ウィズ・ニードルズ

編物はダンス、これが今日のテーマです。 これまであまり指摘されたことがないようですが、編物ほど指をリズミカルに動かす手芸は少ないのではないでしょうか。しかもリズミカルに指を動かすことそのものが編物の楽しみの大きな部分なのです。というわけで私たちは編物はリズムを楽しむ手芸、つまりフィンガーダンスと呼びたいのです。

編物のリズムはメトロノームのように単純なものではなく、模様編みや編み込みのときはそれに合わせてスラーやスタッカートが入ったりしますし、縄針を使うと当然フェルマータが必要です。それらを含めて全体が大きなリズムの中にあり、そのリズムが心地よく感じられるようなときはとても編物の調子がいいときです。逆に、針や糸のすべりが悪かったり、針先が糸を引っ掛けやすかったり、などというようにちょっとしたことでリズムが崩されると、とても不愉快になります。

人間はイライラしてくると、指で机をたたいたり、貧乏ゆすりをしたりしますが、このようにリズムをとる 動作によって、ストレスを少しでも発散しようとします。 ですから、ダンスのリズムはストレス発散に大いに役立つのです。 もちろんダンスが踊れるようになるためには一応の練習が必要ですが、ある程度踊れるようになるとステップの上手下手にかかわりなく、楽しめるものです。

編物は作品を作り上げるのが目的というように考えられていますが、実は編物の楽しみのかなりの部分はこの「ダンス」を踊ることにあるのではないかと思うことがあります。もちろん素晴らしい作品が出来上がる喜び、自分が何かを作り上げているという実感、というのもとても重要な要素ですが、ダンスの楽しさを無視するのは角を矯めて牛を殺すの喩どおりではないかと思います。ダンスは後には何も残りませんが、踊ること自体が生きる喜びです。つまり、編物が自分に与えた喜びは必ずしも作品として残ってはいないのです。

そういう意味では、日本人は編む速さにこだわりすぎているかもしれません。速さを競うのではなく、速く編むのはクイック、遅く編むのはスロー、とそれぞれのダンスを楽しむ気持ちでいいのではないでしょうか。遅くてもリズムに乗っていれば楽しいですし、速くてもイライラしていては疲れるばかりです。先を急がずに、退屈せずに、ダンスのリズムに乗ることを心がけていると編物の楽しみがもっと開けると思います。

編物は結果ではないと言う話で思い出すのは、No Idle Hands:The Social History of American Knitting(Ballantine Books,1990) という本の中の「なぜ編物をするのか?」というアンケート結果です。アンケートでは色々な理由があげられていて、「怠惰は罪になるから」というキリスト教国らしい答えまであったのですが、一つの思い出話が深い印象を残しました。

私の曾祖母はずっと編物をしていました。晩年にはベッドに寝たきりとなり、意識も薄れてきました。 祖母がベッドの横で編み針に何十目かの作り目をして手渡すと、一日かけて30センチくらいの布切れのようなものを編み上げていました。曾祖母が眠りにつくと、祖母はそれを解いて毛糸の玉に戻し、また明日の仕事のための作り目をするのでした….。

まさに編むことは生きること、というシーンで、命の終わらんとするそのとき、彼女は現実には存在しない空想の中の作品を編み続けているのです。おそらく、それは初めて編んだマフラーに酷似しているのでしょう。編物人として、厳粛な気持ちにさせられるエピソードではないでしょうか。え?私たちの未来のよう?どっちが編む方で、どっちが玉にする方かって?はははははははははははははは…….

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