編物の未来

編物というのは糸と棒と二本の腕があればできるという意味でもっとも原始的に思われる手芸です。また現在ではかなり古臭い趣味だと思われている面もあり、実際に愛好者の高齢化は著しいものがあります。 私たちも自虐的に「古くてマイナーな趣味」というようなトーンで表現したりすることもあります。

だから、あえて私たちが編物はとても新しい手芸であるといえば怪しく聞こえるでしょうか?

現在もっとも新しくホットなテーマといえば、やはり「エコロジー」だと思います。 横文字で言えば新しく聞こえるのですが、要するに「物惜しみ」「再利用」を実践しましょうということではないでしょうか。

とすれば糸始末をした後の数センチの糸端を捨てきれずにビンにとっておいたりする編物人は、実は時代の最先端を行くメンタリティを持っていると言えるかもしれません。近頃では、名刺や封筒に「再生紙を利用しています」と印刷されているのが目につきます。かなりあざといような気もしますが、これが企業のエコ意識のアピールなのだとすれば、受付嬢のカーディガンに「このカーディガンは再生ウールを使って、二酸化炭素を発生しない手編みで編み直したものです」とバッジでもつければなお進んでいると思うのですがいかがなものでしょう。

お古の編み直しセーターが、時代を代表する先端的なアイテムに変わるとすれば、当然編物も新しい価値を認められるべきです。

現在の社会スタイルは大量生産・大量消費で、衣類なども毎年の流行によって、まだ着られるものがどんどんと捨てられています。NHKの番組を見ていますと、その一部は古着として、遠くはアフガニスタン山中まで運ばれているようですが、全体からみると微々たるもので、ゴミになるほうがはるかに多いでしょう。

これは、衣類にかぎらず工業生産物すべてに言えることで、社会の仕組みがそうなっている以上、簡単に方向転換できない状態になっています。ですが、繁栄の影で「いつまでもこんなことが続くはずがない」という不安はしだいに濃くなっています。

「ターミネーター」や「タイタニック」がこれだけ受けるのは、SFXの技術もさることながら、その黙示録的な終末の風景が、現代人のカタルシスを誘うからでしょう。

実際、阪神大震災はあのわずかな時間の揺れで、都会の機能の一切を奪いました。昨日まで、社会的なポストもあり、税金も払い、身だしなみを整え、市民としての義務と責任を果たしてきた、そういう文明人が、今日はもうどろどろに汚れた手や髪を洗うこともなく、着のみ着のままでうずくまっていることしか出来ない被災民になってしまったのです。当時は余震もひどく、生き延びることだけで精一杯でしたが、今振り返ってみると、どこかに「来るべきものが来た」という運命的な気持ちがあったように思います。

震災の炎は次々と延焼しつつ、四時間かけてついに隣の隣の家まで達しました。瓦礫の下からやっと取り出した貴重品をバッグに詰めたまま、家の前で自分の家が焼けるのを待つ、という状況は悲惨に思えるのですが、実際にはなんの感情も湧いてきませんでした。ただ、「燃えるのだ」という気持ちがあっただけです。感情のないまま、手にしたカメラで我が家の最期の姿を撮りました。

しかし、突然一台の消防車が現れて、近くの小学校のプールから放水を行って火勢をかなり弱めました。平時であれば徹底的に浸水させるのですが、だいたい火炎が見えなくなったところで去っていきました。その間15分か30分くらいでしょうか?いまだにあの消防車はこの世のものだったのか、いぶかしく思うほど現実感が薄いのですが、現実に消化にあたられた消防署の方には感謝しきれないほどです。

その後、火種は1週間近くくすぶっていましたが、幸いにもこの季節に多い六甲おろしが吹かず、家は焼けずに残りました。とはいえ、手編み作品を含め大部分の衣類は厚い塵埃に埋もれて破棄するしかありませんでした(地域震度7。半壊認定)。それ以降、テレビで遠い国の難民を見ても、ブラウン管の両側は、実はそれほど遠くはないのだという気持ちが消えることはありません。

こういう現代人の不安と編物の関係ですが、不思議なことに、この原始的な手芸は心の安定に確実に役立つのです。電気がなくても、ガスがなくても、水道がなくても、どんな文明インフラが失われても「編物は無くならない」という確信が心のよりどころになるというのは、長い間気づきませんでした。

映画「ターミネーター」の後半、サラ・コナーの夢の中でリースの住む未来の姿が描かれるのですが、そこで人類は薄暗く埃っぽい穴倉のような場所に住んでいることになっています。子供の泣き声、鼠を追う人、どろどろしたものを煮る女性、と、この映画屈指の重苦しい場面なのですが、ここで、いつも、もしだれか編物をする人がいたとしたらどうなるか、ということを考えてしまいます。もしそういう人物がいたとしたら、この絶望的な場面にどれほどの光が差すことでしょうか。少なくとも、いまだ未来に絶望していない人間がここにいるということを如実に示すシーンとなるでしょう。もちろん、この場面でそういうイメージが出てしまうと映画としては台無しになってしまうかもしれませんが、私たちはこの想像で編物のもつ希望と、未来へ指向するエネルギーの強さを確かめてみるのです。

そして、編物は未来の手芸であるという主張はやっぱり正しいのではないかと思うのです。

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