日本の編物は世界の夢を見るか

現在の編物界を見ていますと、やはりあちこちに「西洋コンプレックス」が感じられます。もともとニットというのは海外から来たものですし、新参者であることは事実ですから、ある程度引け目を感じるのは当然かもしれないと思います。しかし、もう一つ日本の編物の負い目は、ある時期海外のデザインの真似をしていたと いう事にも起因するのではないかという気もします。昔の編物本をめくってみると、恥ずかしいほど同時代の海外本にそっくりで、デザインのみならず、写真のポーズやライティングまで真似をしていたりします。それがまた、日本人には似あっていないデザインだったりすると、なんとも悲しい気持ちにさせられます。

しかし、色々な考え方があると思いますが、何かに追いつこうというときに、真似から始めるのは決してアンフェアではなく、ある意味で当然の戦略という面もあります。問題は模倣を超えて、逆に影響を与えるところまで成長できるかどうかということです。(現在は、昔より著作権のパワーが大きいので、下手をするとエライことになりますから、その点は要注意です。私たちは著作権違反を推奨しているわけではありません。もちろん現在の著作権のありかた、いかがわしさには疑問を感じていますが、これはまた別の機会に。)

この点に関して、考えさせられるのは世界に誇る日本の「アニメ」です。ご存知のとおり、娯楽映画としてのアニメーションはアメリカのウォルトディズニー社が華々しい成功を収めており、ミッキー・ドナルド・ダンボなどのアニメキャラクターは現在にいたるまで商業的価値を保っています。日本でアニメーションを創始する虫プロも、最初はディズニーの模倣からスタートしたのですが、彼我の差は子供心にも情けない気がしたものです。ディズニー映画のオールカラーで滑らかな動きに対して、日本のアニメーションはモノクロで動きも不自然、しかも同じコマが何度となく再利用されていたり、口だけパクパクしていたり、とレベルの差は圧倒的でした。

しかし現在では、ディズニーの「ライオンキング」は、手塚治虫氏の「ジャングル大帝」の真似ではないかと非難されたりしていますし、今年は、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」がディズニー社の作品を押しのけて、オスカーを獲るまでになりました。(編物関係でも、フランスのとある編物ショップに行ったところ、フランスらしいおしゃれなニットウェアを押しのけて、トップに「ポケモン」のセーターが飾ってあったのには、度肝を抜かれたものです。)その間わずか半世紀、日本の編物の歴史よりもはるかに短いアニメーションが、日本の「アニメ」として世界中の若者文化に影響を与えるようになったわけです。これを考えると、編物は確かに日本にとって歴史的には新しい手芸ですが、文化の逆輸出をするのには決して短すぎるというわけでもないということが分かります。

編物とアニメとの圧倒的な差はどこから来ているかということを、素人なりに考えてみると、次のようなことが考えられます。

1.模倣に寛容

アニメや漫画の世界というのは、模倣が盛んに行われてきており、外部の人からはどれも同じような絵に見えるものです。模倣に寛容であったことが、全体として文化の育成に役立ち、また、要所要所で新しい人材を供給できたポイントだったように思います。

2.非権威的

昔は、中学生になって漫画を読んでいるとたしなめられたものですし、永井豪さんの漫画などはあまりにもエッチすぎるとして、PTAから再三抗議を受けたり、雑誌の不買運動にまで発展したりしています。現代漫画の祖とも言える手塚治虫氏自身が、漫画は娯楽として消耗されるだけで後世に残ることなどないという意味の発言をしたりしています。権威性への自意識は長い間ほとんど感じられませんでした。

要するに、真似と呼ばれようが、下劣と呼ばれようが、ともかく好きだから描く、ウケルから描く、その代り激しい競争の中で、お互いにパクリ合い影響しあいながら、フルスロットルで疾走してきたエネルギーが、文化の違いも、新参者というハンデをも、ものともせずに世界に放たれている、それが日本の漫画やアニメではないでしょうか。

そういうエネルギーと比較すると、現在の編物はすでに死に体です。もはや、編むという楽しさの原点に返らない限り再生はできません。若い人には、既存の権威をすべてリセットすることをお勧めします。基本技法とかプロの仕上がりとか、現在価値があるとされているすべてを一度、捨ててみることです。失礼ながら手塚治虫氏も、アカデミックな意味のデッサン力はあまりありませんでした。変な言い方ですが、もし手塚氏が若い頃美術学校でデッサンを訓練していたら、あの生き生きした初期作品は生まれなかったでしょう。

編物も、これからは編んで楽しいものだけを編むというのがいいと思います。とはいえ、間違っても「アート」などしないほうがいいでしょう。既存の「アート性」などというのは、すぐに底の知れる程度のもので、到底時空を超えて人の心を打つことなどできませんし、何より自分が最初に空しくなってしまいます。

私たちの初期のコンテンツに「サンカ手袋」を再現したものがあります。これなどはオリジナリティのまったくない猿真似なのですが、心からの喜びでもって無心に真似ました。その喜びと興奮はなぜか人に伝わるようで、同じ喜びを発信するサイトもあちこちに出来ましたし、海外からもメールをたくさんいただきました。なかには、カナダから「私はアイルランド・スコットランドのコミュニティに生まれ住んでいるのにこんなに素晴らしい手袋を知らなかったとは…」という、うめきのようなメールもいただきました。

海外作品の猿真似を日本人が嬉々としてやって、それを本場に近い人が羨ましがるのですから、まさしくアニメチックな出来事で、これは編物をして来て得られた喜びの中でも、最高に近いものでした。

こういうのは、ほんの一例に過ぎません。 私たちは編物をするなら、やっぱり本当に楽しいもの、編みたいものを編んで見るべきだ、と心から思います。

こちらの記事も人気です