夫の死を想定して編む妻がいるのか。ガーンジーの伝説(1)


セーター
は今日ではニット製品の代表のようになっているが、その歴史は意外に新しい。かつてニット製品の代表となっていたのは、なんと言っても靴下だった。ウエアは色々な素材の縫製品があるが、今でも靴下は基本的にメリヤス編みの編製品である。縫目を許さず、伸縮性が必要な靴下にとって現在においても編物に取って換わる素材はないのだ。
その手編み靴下産業を壊滅させたのは、編機の発明だった。瞬く間に手編み製品は駆逐され、手編みという産業はほとんど消失した。しかし、産業革命の恩恵の及ばないイギリスの漁村では、手編み製品の価値は失われなかったし、たとえわずかであれ現金収入の得られる手編みは女性たちの重要な技巧として伝えられてきた。このように漁民の労働着として各地で編まれたセーターがガーンジーセーターである。

20世紀になって伝統ニットブームが起き、手編みセーターは産業として華々しく復活するのだが、これを可能としたのは、海の女たちが編み継いできたガーンジーセーターの技術であり、多種多様の手編み製品を作ることができる彼女たち自身でもあった。

今日、伝統ニットと呼ばれるフェアアイルやアランセーターは、この頃に急速に産業製品として仕立てられたもので、それほど長い歴史をもっていない。しかし、ひとりガーンジーセーターのみはその地域性・多様性において特出しており、今日でも愛好家・研究家を魅了してやまないのだ。

ガーンジーセーターは、中細位の極めて拠りの強い毛糸を使い、色は濃紺が基本である。シルエットは体にフィットした形であり、現在の長袖の下着のようにも見える。編目は極めて密で風を通さない。

このようなガーンジーセーターの特徴は、労働着としての必要から生まれたものであるが、このために地味で着心地も良くなく、伝統ニットとしての人気は低い。おそらく本格的なガーンジーセーターを日本で着れば、長く着ていたいとは思えないだろう。

地に足が着いたようなガーンジーセーターだが、怪しげな伝説はある。その一つが、海難にあった夫の身元確認を行うために、妻があらかじめセーターの一部に意図的な間違いを仕込んでいたというものだ。この話は有名だが、私たちはあまり信用できないと思っている。まず、夫が水難に遭うという事態を予想して、妻がセーターを編むだろうか。これ自体が信じ難い。それに、編物をしたことがあれば分かると思うが、自分の編んだセーターは一目見れば分かるものであり、模様も自由に作れるのだから、あえて間違いをしなければ見分けがつかないということ絶対にない。また、ガーンジーセーターは何度となく修復されて利用されるのだから、修復痕も一枚のセーターの特徴となるはずだ。なぜあえて別のマークが欲しいと思うだろうか。

ただ、そのような動機を別にすればセーターを編み上げる際になんらかの印を編みこむということは考えられる。一枚のガーンジーセーターを編み上げるには大変な時間と手間がかかる。今でもオリジナルラベルを作って手編み作品に付ける人がいるのだから、どこかにサインとして自分のイニシャルとか、記号のようなものを編み込むことはあったかもしれない。

実際に海難にあった漁民が漂着したというような場合、歯型やDNA鑑定がない時代を思うと、そのセーターの特徴によって身元確認を行うということは多かったのだろう。また、その際自分の印があれば、夫の無事を最後まで信じたい妻も納得せざるを得ない決定的証拠となったかもしれない。しかし、そうだとしてもそれは妻があらかじめ恐ろしい事態を想定して行ったことを意味するわけではない。当然ではないか。現在、日本人が歯医者でレントゲン写真を撮るのは、歯を治療するためである。決して白骨死体になった場合に身元を判定してもらうためではない。結果を動機とみなすのはとんでもない勘違いだ。

広範囲かつ長期間にわたる手編みする妻たちの心をすべて推し量ることはできないのだから、何が正しくて何が間違いと一概には言えない。それでも、私たちは妻が夫の水難の身元確認用にガーンジーセーターに印をつけたというのは、伝説に過ぎないと思う。彼女たちは、夫の無事を祈念するための模様なら編んでいる。ちょうど今日のライフジャケットを付ける場所に何重にも渡って縄編みが編み込んであるガーンジーセーターを見ると、その思いが伝わってくるような気がする。これで十分過ぎるだろう。

ガーンジーセーターというと、エリスキーガーンジーのような緻密で凝った模様のものが浮かぶが、それはどちらかというと特殊な事例で、時代を遡るほど、単純な模様のガーンジーが増えるようだ。写真のガーンジーは、1900年のものだが、胸から上は鹿の子模様のような編み方で、その下は単純なメリヤス編みである。ガーンジーの模様に関しても色々と伝説の彩りがあるのだが、それらも大部分は後世に作られたものであろう。ただ、編物をしている人なら分かると思うが、単純なメリヤス編みが延々と続くよりは、少しでも縄編みなどがある方が楽なのだ。段が数えやすいという利点もある。また、お互いの競争意識も働くだろうから、徐々に模様編みが発達してきたのだろう。しかし、基本となるガーンジーは決して凝ったニットではない。

労働着として位置付けられているガーンジーだが、フィッシャーマンにとってガーンジーは誇り高き正装でもあったようだ。簡単に写真が撮れない時代であるにも関わらず、このようなガーンジーセーターを着た男たちの写真が多数残っていることからも分かるように、海の男たちにとって颯爽とガーンジーを着こなす自分とは、何よりも格好よい姿であったのだ。

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