フェアアイルの伝説(1)

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突然だが、左の画像は何色に見えるだろうか。この画像は、日本語と外国語(岩波新書 鈴木孝夫著 1990) の中表紙にある写真の色に似せて作ったものである。著者、鈴木孝夫教授の調査では日本人の7割弱が茶色と答え、赤土色、褐色、セピア、ココア、レンガ色などという回答もあったそうだ。上記の著書によると、この色はアメリカの車メーカーの色見本が元になっており、それはオレンジ色に分類されているらしい。

鈴木教授は、日本人にとってどう見てもオレンジ色に見えない色がアメリカのorangeには含まれているということを発見したときのことを次のように記している。

教授は、アメリカにいた際、猛烈な吹雪に襲われ、レンタカー会社に電話をすると、10分ほどでオレンジ色の小型車が迎えにいくと返事をもらった。しかし、なかなか車は現れない。

二十分近くなったとき、ハッと気がついた。さきほどから、少し離れたところに茶色の車が停まっていて、一人の男がこちらを窺うように見ているのだ。これだと思い、駆けよって行くと、果たしてそれが私のレンタカーだった。長く待たされて見るからに不機嫌そうなその男に、オレンジ色の車が来ると言われていたので判らなかったと言うと、男は平然として、この車はorangeだよ、と答えたのである。

英語の orange が必ずしも日本語のオレンジ色に一致しないということが、在米経験も豊富な言語学者の鈴木教授であっても長い間判らなかったのだ。この本には他にも虹は七色か、林檎は赤いか緑か、太陽の色は何色か、イギリスの靴店になぜ靴べらがおいていないか、等々、興味の尽きない実例が出てくる。著者はこれらの例の後にこのように言う。

外国の文化、それも外国人の考え方、そして風俗・習慣の目に見えない部分というものは、以上述べたように、部外者にはたとえその国を訪れても、いや長年住んでさえも、偶然の幸運に恵まれないと、なかなか理解の糸口が見るからないものなのである。
しかも常にどこか違うはずだ、何かが隠れているに違いない、という緊張と問題意識を持っていないと、せっかく見えた切口も見逃してしまう。

鈴木教授は、常々単に異文化と触れ合ったというだけで、「国際理解」が深まるというような安易な考え方に警鐘を鳴らしているのだが、このような実例を並べられると、実に説得力がある。

さて、「フェアアイルの伝統」というこのブログのタイトルで中身を想像しつつ、ここまで読まれた方の中には、いったい何の話をしているのかと、苛立っている人もいるかもしれない。実は、日本語と外国語のオレンジとorangeの話に似たようなことがフェアアイルと Fair Isle にも当てはまるのではないかというのが、今回の趣旨なのだ。

しかし、フェアアイルは地名ではないか。誤解の余地などあるだろうか?日本人の一般的なフェアアイルのイメージは、例えば右図のような編み込み模様を使った伝統的なセーターや小物というものではないだろうか。あるいは、 シェットランド博物館(http://www.shetland-museum.org.uk/collectionsuot/textiles/fair_isle_knitting.htm デッドリンク)にあるようなものが、フェアアイルセーターの典型というものであろう。

私達が、フェアアイルセーターが好きだとか、嫌いだとか、あるいはフェアアイルが編めるとかいう場合に、頭の中にはこのようなフェアアイルセーターのイメージがあるのではないだろうか。調べたわけではないが、おそらくこれが日本人の共通的なフェアアイルのイメージだろうと思う。

NHK世界手芸紀行[1](ニット,レース編) は、シリーズのトップにフェアアイルを取り上げている。この取材エピソードを読むと非常に興味深い。

最後に残った候補地がフェア島でした。地図を開くと、イギリスの北、オークニー諸島とシェットランド諸島の間の北海にポツンと描かれた、点のような島、フェアアイル 、その響きにはなぜか私たちの心を引きつけてやまないものがあります。

要するにフェアアイルニットとは、文字通りフェア(アイル)のニットという理解なのだ。だからこそNHK取材班は万難を排して「イギリスの中で、もっとも行きにくい島」フェアアイルへの取材を敢行する。、フェア島のニットこそ純正のフェアアイルニットと考えれば、フェアアイルセーターとは必然的に伝統的なイメージにならざるをえないし、またそのように期待する。それはフェアアイルという言葉の響きに込められたロマンでもあるのだ。

このようなイメージを持った日本人が、洋書を買う際、Fair Isleと書いてあれば、こういう作品が載っているものと思うのだが、実際に購入してみれば、似ても似つかぬセーターにFair Isleという名前がつけられていることに驚くことがある。そういう本に出会うと、「こんなフェアアイルでもないものにFair Isleという名前をつけるとは」まったくフェアでないと出版社のでたらめさに憤慨したくなるのだが、これこそまさに、オレンジ≠orange の悲劇である。

実は、英語のFair Isle は日本人がイメージするフェアアイルも含むが、それだけにとどまらなず、編み込み模様全般に使われるのだ。まさかと思う人もいるかもしれないが、例えば初心者向けの編物技法書であるVogue Knitting Quick Reference: The Ultimate Portable Knitting Compendiumの第5章、Color Knitting のところを開けてみれば、ちゃんと横に糸が渡る編み込み技法の章名がFair Isle Knittingとなっている。ちなみにもう一つの糸が渡らない編み込み技法はIntarsia(インターシャ:象嵌細工の意)という名前で載っている。つまり、広義のFair Isleとは、糸が渡る編み込み技法の総称なのである。

これは別に怪しいことでもなんでもない。ガーンジーセーターにしても、それはガーンジー島のセーターという意味はなく、ある形式のフィッシャーマンセーターの総称である。ジャージーにいたっては、ジャージー島のウエアとは、まったく無関係な衣類の名となっていると言ってもいいだろう。

ガーンジーやジャージーと比較すれば、フェアアイルはまだオリジナルの意味が失われていない方だと言える。フェアアイル=フェアアイルに固執するのは、日本人の自由であるが、Fair Isleという語は必ずしもそのイメージを備えていないことは、海外書籍やキットを購入する上で是非とも知っておきたい知識なのだ。

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