自分の編んだものは一目でわかる。ガーンジーの伝説(2)

昨日のガーンジーセーターの伝説は、長くなりすぎたのでいったん終わらせた。今日はその続きを書く。

ガーンジーセーターに意図的に間違いを入れたという伝説は、「海の男たちのセーター」 (とみたのり子著 日本ヴォーグ社1989) にも次のように掲載されている。

パターンに特徴を持たせる以外にも、彼女達は誰にも明かさず、一目だけのまちがいを作ったという。どこに作ったかは彼女だけが知っている。それは、自らの手のとどかない危険な場所に最愛の人を送り出す女の、願かけにも似た行為だ。と同時に、彼の最後の装束になるかもしれない衣装を自らの手で作り上げる女の、悲しい、しかしきっばりとした決意のしるしであったのかもしれない。

海の男たちのセーター」は、ガーンジーセーターの研究書として世界に誇れる素晴らしい本だ。特に著者自らが各地におもむき、直接関係者から取材しており、さまざまな資料がオールカラーで紹介されているのは、海外書籍まで含めてもまったく例をみない。

しかし、引用した文章は前半は伝聞、後半はとみたのり子氏の推測であって、事実の取材ではない。とみた氏が取材した頃はすでにガーンジーセーターの伝統は死滅状態であり、博物館で目にかかるものでしかなかった。著者はやっと今も実際にガーンジーセーターを着ているフィッシャーマンに出会ったとき、喜びのあまり上着を脱がせているほどだ。

したがってこの伝説が本当かどうかを直接取材して確認することはできなったはずであり、だからこそ「…作ったという」と、間接的な表現に留めているのだろう。

しかし、この話は直接イギリスに取材しているもので、もっとも伝説の出所に近いもののように思える。ここからさまざまなバリエーションが広がっていったのではないだろうか。

この話には興味深いところが2点ある。一つは、「一目だけの間違い」で、もう一つは「彼女だけが知っている」という点だ。ここから、ガーンジーセーター伝説の真相を推理してみたい。

まず、「一目だけの間違い」という点だが、これは当然「その気になれば一目の間違いもなく編める」ということを前提にした話だ。しかしこれは可能だろうか。ガーンジーセーターは昔のニッターにとっても手間暇のかかる作品だ。それを、時には仕事の合間、また別の時には薄暗い闇の中で編んだ。ゆっくりと楽しみながら編んだわけではない。平均して2週間で一着を編み上げたというから、細切れの時間を使ったにしては驚異的な速度である。

過去のニッターの実力がいかにすごかったと言っても、万単位の数におよぶ編目のただの一目も間違えないということがありえるだろうか。彼女たちも人間、万に一つの過ちはあったと考えるのが自然だろう。

さて、模様編みセーターを間違えた経験のある人であれば、それがどのような意味を持つか、言われるまでもなく分かるだろう。たった一目であっても間違いはものすごく気になるのだ。その作品を見るたびにその部分に目が行く。それは10年経とうと、20年経とうと全く変わらない。セーターを見るたびに「あぁ、ここさえなければ」と思う。どれほど悔しいか、編物をしない人には想像もできないだろう。他の人には全く分からない些細な間違いであっても、自分だけはその傷が拡大鏡で広げたようにものすごく大きく感じるものだ。

私たちのように趣味で編んでいてもこうである。まして、ガーンジーの故郷であれば作品の意味は全く違うのだ。結婚が決まったカップルは、女性が男性にガーンジーを送る習慣があり、新郎はそのガーンジーセーターを結婚式で着る慣わしになっていたという。さらにそのガーンジーには「ブライダルシャツ」という特別な名前があったそうだ。

「ブライダルシャツ」ともなれば、一世一代の大仕事だろうが、そうでなくても夫の誇りと妻のプライドがかかった大変な作業である。そこに間違いをしてしまったと分かったときの衝撃と後悔は想像するに余りあるではないか。おそらくこれは誰にも打ち明けられなかったかもしれない。これこそが、「彼女だけが知っている」という伝説の2点目に繋がるのではないだろうか。

もちろん、そのような間違いは濃紺のガーンジーでは簡単に見つかるものではなかっただろう。しかし、もしも夫が自分のガーンジーの間違いに気付いたとしよう。妻はどう言うだろう。笑って、「間違っちゃったのよぉ〜。ゴメンネ〜。」と言うだろうか?いや、おそらく言えなかったのではないだろうか。しかし、間違いを認めないとすれば、どうなるか。必然的に、それは故意に編んだとしか言いようがないではないか。例えばこういったかもしれない。そしてこのような言葉が、男をして今日まで伝わる伝説を残さしめたのではないかと思うのだ。

「女はね。夫の安全を願ってわざと間違いを入れているの。」

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