ロマンチックな思い入れの罪 ガーンジーの伝説(3)

ガーンジーセーターに意図的に間違いを編み込んだという伝説について2回に渡って記した。私達の考えは、もしそれが事実としても、意図的なものというよりは偶然によるものか、カタルシス効果を狙った創作なのではないかというものだった。もちろん、これは推測であり、実証されたものではないが、それは伝説そのものについても言えると思っている。

今回は、このような伝説を生み出すもっと大きな背景を考えてみたい。それは、「妻が夫に編む」というキーワードではないだろうか。ガーンジーセーターが非常に多様な地域的バラエティを持っていたということは事実であり、これは、ガーンジーセーターが流通商品でなかったことの証明でもある。実際、ガーンジーセーターの編み手の多くはフィッシャーマンの妻であった。この部分は伝説ではなく事実であるが、しかしこれを敷衍しすぎるのはいかがなものだろう。

例えば、「21世紀初頭の日本では、妻が夫のために手作りの料理を用意した。」というような記述は、事実に基づいた記述かもしれない。しかし100年先の人が、「妻が夫に愛情を込めて作った手料理」と、書いたとすれば、そこにすでに伝説の萌芽が見られるとは思わないだろうか。もちろん、これは一度作ったカレーを3日続けて晩御飯に出すのは、愛情がこもっていると言えるのか言えないのか、というような話ではない。

それぞれの家庭には家ごとに違った事情があり、家族一人一人には他人とは違った物語がある。それらを大雑把にならし、全体に対して「愛情」という形容詞をつけることは、現在を生々しく生きている人間には抵抗感が強すぎるだろう。

しかし、本来の形のガーンジーセーターは、歴史のかなたに消え去ってしまった。残っているのは博物館に収められた標本だけだ。過ぎ去った物語に思いをはせるとき、そこにロマンチシズムが忍び寄ってくるのを防ぐことは難しい。かくして、「妻が夫のために一目一目心をこめて編み上げたガーンジーセーター」という伝説が確固として出来上がる。

しかし、ロマンチックな大波が通り過ぎた後に、ふとこう思うことはないだろうか。「妻がいない男たちはどうしたのだろう」と。

ガーンジーセーターは、フィッシャーマンにとって無くてはならない労働着である。ガーンジーは、海の男たちを波の飛沫から守り、冷たい季節風から体温が奪われることを防ぐために欠くことのできない防具だ。これなしに漁師を続けることはできないのだ。

よく考えると、未婚の男性のみならず、妻が病弱な夫、妻に先立たれた男やもめ、など妻にセーターを編んでもらえない男は沢山いたはずだ。イギリスの漁村では、さまざまな事情で男女の比率がアンバランスで男性が少ないことが多かったらしいが、それでも、不幸な境遇にあった男は少なくなかったはずだ。

もったいぶらずに言えば、実に単純、彼らは金でガーンジーを買ったのだ。ちゃんと相場の金額が記録に残っている。 1900年の記録によると、ガーンジー1着の値段は、17.5ペンスである。現在の日本円に直すとわずか、1800円程度にしかならない。

もちろんこのような内職用ガーンジーと、妻が夫用に編むガーンジーとでは気合の入れようが違い、模様も変えたということは想像できる。

しかし、家庭には愛情と同時に経済も必要不可欠なものであることは、過去も現在も変わりがない。編物の歴史を見渡しても、編物から経済の影がなくなったことはほとんどなかった。それはごく最近まで似たような事情であり、私たちの祖母や母親の年代の人も、家族だけではなく、頼まれれば内職的に編物をすることは結構あったように記憶している。

夫に先立たれた妻にとっては、そんな程度ではなく、編物は非常に重要な現金収入の手段であったらしい。仲介組織もあったようで、女性はノルマとして、少なくとも二週間に一枚は編み上げることを求められたという。お金のために編む編物は、趣味の編物とは全く別物で、苦行というに等しい。ガーンジーセーターの伝説も近づけば近づくほど現実の重さが模様となって浮かび上がってくるような気がする。

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