編物の楽しさの中に、買ったら目が飛び出るほど高いものを、安い毛糸で作れるというのがあると思います。ただ、このあたりの楽しみ方は人それぞれのようで、たとえば、たたは気に入った作品ができると、それを生かすようなコーディネイトを考えて、ファッションとして楽しもうとします。また、出来上がった作品は大事にします。ところが、たた夫はできた作品には興味がないようで、独身時代の作品は捨てるように人にあげてしまってほとんど残っていません。作る過程が楽しいので、できてしまった作品への執着はほとんどないのです。このへんは、もしかすると男女差のある部分かもしれないと思います。作品が残らない芸術と言えば、その最右翼は花火でしょう。「花火 – 火の芸術」(子勝郷右著,岩波新書,1983)は、花火を打ち上げ終わった直後の花火師の興奮をこのように描きます。
こんなときには花火師は極度に言葉が少ない。丹精込めた自分の玉が無事に打ち上げられた満足感と一抹の寂しさ。打ち上げ現場の戦場のような興奮がいまだに余韻を引いている。ひと口に何万発の打ち上げなどというが、考えてみてほしい。すでに何回も述べてきたように火薬と紙と糊を使って、人間が手で造れる極限まで真丸にしたものだ。花火造りだけは大量生産のきかないものだから、造るのに時間が長くかかる。それをほんの三、四秒の間に燃焼しつくすために全精力を集中する。
こうした瞬間的な集中力の結集こそ、花火につかれた男どもを支えている。この命がけの集中力があるからこそ、花火師にいわせると「花火は男だけのものだ」ということになる。とくに日本の花火は男だけの世界なのである。
たた夫が作ったセーターをあげるために、青いゴミ袋2袋に入れて会社に持っていくと、どこからともなく人が現れて、数秒の間にセーターは消えて無くなったといいますから、彼の楽しみ方は花火師とどこか共通点があるのではないかと思うのです。