編み物に「愛情」は必ずこもっているものなのでしょうか?

編物に愛情がこもっているという、「お約束」を広めるのに「かあさんの歌」はとても影響力があったように思います。しかし、この歌が描く情景は人工的で私たちは好きになれません。歌詞のところどころに東北弁らしい言葉が交じるのですが、これはとんこつのカップラーメンを食べて「うまか〜」などと叫んでいるコマーシャルと同様、あざとさが感じられます。

そもそも「かあさん」という言葉自体が、少なくともこの歌が流行った昭和30年代では、地方の人にとってかなりハイカラな呼び方だったはずです。そのうえ、父親の呼び方は「おとう」となっていて妙にアンバランスです。アンバランスといえば、父親が藁打ちをしている家の囲炉裏端で、母親がウールのメリヤス編みの手袋を編む、という対比自体が、日本の農村描写としてどれほど適切か首をかしげたくなります。

それもそのはず、「かあさんの歌」を作詞作曲した窪田聡氏は東京都墨田区の生まれです。開成高校卒業後、大学に合格したにもかかわらず、家出をするのですが、その原因は進路に関して母親との対立があったからということです。

信州新町には、「かあさんの歌」の歌碑がありますが、ここは父親の実家で、氏が戦中に疎開生活を送った場所です。そこでは、「叔父」が土間で藁打ち仕事をし、「祖母」が麻糸を紡いでいたという情景があったようで、これが「かあさんの歌」の元となっているということからこの地に歌碑が建てられたようです。

想像するに、おそらく「かあさんの歌」には母親の望む生き方に反発したことに対する原罪の意識が塗りこめられているのではないかと思われます。それ自体は別に問題ではありませんが、この歌がNHK「みんなの歌」などで取り上げられてヒットしたために、「編物」という手芸にセンチメンタルな甘い味付けが濃厚に染み込んでしまったといういうことは、編物文化にとって、ある意味で不幸なことであったと思います。感傷的な思い入れというのは、技能・芸術にとってあまりプラスには作用しません。

日本人がデザインする編物にどこか共通する甘さやセンチメンタルな気分というのは、この歌の遠い影響ではないのか、とさえ思うのです。

こちらの記事も人気です